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慈悲喜捨とペンターブモーション

Category : yodokai会員専用記事
仏教で言う「慈・悲・喜・捨」の精神。
これが「中道」からの意識構造なら、ペンターブモーションに置き換えて説明がつきます。


20110128-1

先手・「負荷」には「慈しみ」が起きます。
客体に対し、先手として起こすべき意識のベクトルです。

その反映「後手」にはその反映物である「悲しみ」が起きます。
慈しめば、慈しむ程、反作用である、「悲しみ」を理解せざる終えない状態です。

その「対化」は散々なやり取りとして「双対」する結果、等化に至る事になります。
慈しみも悲しみも同等に受け入れざるえない結果は分かち合う「喜び」に着地しますが、その過程は散々足るものだった事は、必要なプロセスになっています。

その結果、そのプロセスを中和する、相殺回転が同時に起きます。

それが「捨」になります。
この「捨」は「捨てる」と言う意味の他に「施す/ほどこす」と言う意味も含んでいます。
つまり、捨てるのと施すのは、その行為は同じでも、その意識には全く反対の姿勢が含まれています。

この4つを一つとした状態が「愛」ですが、それは、全てが揃った何も無い状態です。
遥道会では、このペンターブモーションを順手で想起してこそ「あるがまま」であると状態だと考えています。

この意味で、「慈悲の瞑想」は、まったく役に立ちません。
むしろ、反映を産むエネルギーを内在した人には、危険でもあります。

慈悲の瞑想の意味は、この力の論理に順次て「サティ」・・つまりセンタリングしていく事です。
マントラの様に慈悲の瞑想を繰り返せば、繰り返す程、その意味は遠ざかるはずです。
思考を止める瞑想で、慈悲を祈る意味はありません。
ただし、仏陀に帰依する仏教徒が修行として行う場合は意味が別です。
その反映に対し、無執着という、無為の姿勢で中和する事が、俗世界から離脱するのに役立つからです。

21世紀を生き我々には、それなりの理解とそれなりの環境でそれなりの取り組みがあります。

積み上げないで、相殺します。
集めないで、捨てていきます。
並べないで上書きします。

結論は「中和」に行き着きます。
僕はそれを「今」とよんでいます。


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