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「セロ弾きのゴーシュ」に学ぶ遥道会ロジック。

Category : 道、遥かなり。
。。先週末・・kayoさんの演劇を見てきました。
僕は時間的にやり繰りが付き、二日間ともしっかり観照出来ました。

その舞台は、当然素晴らしいものです。
稽古を繰り返し、刷り込まれているエネルギーや、それを楽しんで演じている各々のレゾンナンス・・。
失敗ミスやそんなものさえもアドリブで埋めていく小器用さ。。
既に趣味とは呼べない領域からのアプローチは、舞台を利用させて頂く僕としても大変、学ぶ所が沢山ありました。

今回の演目が「セロ弾きのゴーシュ」宮沢賢治の作品とは前々から聞かされていました。
・・宮沢賢治・・?マジか?と最初はどーよと思ったのですが、宮沢賢治の一ファンとしては、期待も大きくなります。
「セロ弾きのゴーシュ」そのものは知っていましたが、読んだのか?読んでないのか?曖昧なままだったので、演劇前に読んでおこうと、一通り読んでみたのですが・・。さすが宮沢賢治です・・。ただも読める・・。うがってもも読める・・。間違っても読める・・。どのようにも読める・・。
kayoさん達が、これをどのように解釈し、どう表現するか?
ただの童話にしてしまっては、チープだし、哲学的背景や森鴎外の様な教訓や、福沢諭吉の様な説教を感じさせる必要も宮沢賢治には必要ない..。
で・・さすがは遥家と納得です。

この物語には我々遥道会でいう、ペンターブ的中和が作品の深く流れています。
いかに中和に落ち着くか。。その過程が見事です。

ゴーシュは金星音楽団(この辺りも賢治らしいネーミング)でセロを弾き、ただ単純に上手くなりたいだけです。
現在の自分は下手で、楽団に迷惑をかけているという現実にヘキヘキしています。
でも練習でみえてくるのは、上手くいかない現実です。
上手くなりたい・・その為に彼は何を見るのか?現在は、何も見ないで・・見ようとしないでイライラと演奏そのものに没頭します。・・まだ気付いていないのは、そのやり方では結果は出ないという現実に気付いていません。

そこで猫が登場します。
猫は賢治の「投影」で彼が嫌っているものの一つの象徴になっています。
猫は「聴いてやるから弾いてみろ」的にまともに真正面に姿を現しました。まさにゴーシュに「負荷」を入れて来た訳です。
ゴーシュが、自分に耳栓までしながらいきり立ってセロを弾く。。ここでのすったもんだは、kayoさんらしいサービス精神で見事に表現されていましたが・・相当、挑戦したんだろーなーーと、そのレゾナンスに感動した場面でした。
ゴーシュは「反映」として反応し、猫を退治(?)したつもりです。・・でもそれではセロを弾く、弾かないの問題にはなんの成果もありません。

で、カッコウの登場・・。
カッコウとは一部分で、ゴーシュもすっかり事を忘れレゾナンスに没頭する場面があります。
つまり、猫的対化を瞬間「等化」するのですが、すぐ対化も戻ります。
「これでは鳥になってしまう!!」・・つまり双対する事で、せっかくのレゾナンスを失う事になりました。
血だらけで逃げていくカッコウは、自分に厳しく当たっているゴーシュの投影です。

次が狸の子供。。未邪気に現れて、敵意無く、評価する訳でもない無機質で純粋なエネルギーにゴーシュも初めてセロを楽しく弾こうとする姿勢が出てきます。・・がそれは、夕べのカッコウとの等化が影響している事に彼は気付いていません。
「二番目の弦が遅れるよ。。」と子狸に指摘され「セロのせいだよ」と言い訳してみたのですが、それに気付いてない自分がいたのは本当で、ゴーシュはここで自分の身の丈を知らされています。
子狸は淡々を役目を満喫し帰っていく・・。ゴーシュは、自分が楽しんで弾いている事に満足します。
つまり、「等化」の完成でしょうか。。

最後は、子供をつれたのネズミの母親。
「子供の病気を治して欲しい」と言われゴーシュは驚きます。
ゴーシュの演奏をどう受け止めているのかは、実は聴いてい側だった事に気付きます。
上手く弾く事じゃない・・弾く事によって聴いている側が何かを勝手に手に入れている。
それを見ないで、上手く弾く事ばかりを焦っていたゴーシュは、セロを弾く「意味」を学びました。
結果ではない。自分がやっている事はそれを受け止める客体との間で起こるレゾナンスが全てで、それを起こす事が自分のセロ弾きとしての役割(前面の意味に気付く)なんだと自覚します。

アンコールでも、開き直って弾いたセロは、上手く弾きたいという欲求からではなく、自分のエネルギーを完全に出し切る為に演奏し、拍手喝采として終わります。

最後にゴーシュは、あのカッコウを思い出し、「俺は怒ったのでないのだ」とつぶやきました。
等化のヒントをくれたカッコウは、ゴーシュの前面に気付く為の反映です。無い訳にはいかないのに、あると一番厄介なものです。
「今これがあるのも、あのときの双対があった為・・」過去を書き換えた瞬間、彼は自分は自分が思い通りにならない現実をカッコウにぶつけた事に気付きました。
自分の誤りに気付きカッコウへの慈しみが、カッコウに謝りカッコウに辛く当たった自分の意味に気付き、それを許して認めていきます。
・・登場した全員が全部、彼の背面を見せてくている訳です。

この物語が何を語っているのか・・?
読み解く為には、こちらのスキルが必要で、そのスキル次第で解釈は全く変わります。

S1とS2との連動を頭に入れてもう一回、この物語を読むと、賢治のメタの凄さに気付きます。
これを今回の舞台の演目に採用したkayoさん達は、さすが!としか言い様がない。。

僕もいっぱい見せてもらいました。
本当にありがとうございました。。
kayoさんもお疲れさまでした。
これが、毎年の楽しみになりました。
本当にお疲れさまでした。。
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Comment

seishin先生へ

先生、二日間もありがとうございました。

それから、このようなブログまで・・・
嬉しいなぁ~
ありがとうございます。。。
何だか、それしかないわ。。。

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