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「ψ5」&「ψ6」=「前面」と「背面」の等化

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2014 年も始まり、今年も通常コースでのロジック解説がはじまりました。
Primal Rayのロジックを学んでいる者に取っては当たり前な話でも、一般の人達には、この内容がさっぱり伝わらないという話は幾つかあります。
中でも一番不思議に思われ、全く話が落ち着かない感覚に・・・
「人間は、この事象世界(S1)のぴったり半分を永遠に見る事が出来ない
という感覚があります。
我々が<この世>とよんでいる、身体を拠り所にして体験しているこの世界を、我々は全く半分見落としたまま生きている事に気付いていません。
釈迦やラマナ・マハリシもこの様に我々にさとしています。
「あるがままに見なさい」
しかし、この「あるがまま」とよばれる感覚も現代の我々は、上手く理解出来ません。
「あるがまま」とは、何もしない事ではなく、全く「あるがまま」見るのです。

下の画像をご覧下さい。

 20140112-1

ある二人の人物が向かい合っています。
不思議でもなんでもありません。
しかし、現代に生きる我々は、ここで大きく見落としている事実があります。
それは、この二人の間には、全く違う二つの方向が存在するという事実です。

言われてみれば当たり前であり、当然の事の様に思われるこの事実を、我々は理解できないままです。
つまり、この「あるがまま」の状態を小さな事として、見落とす為、あるがままを認める事が出来ないで生きています。

このフィギアで言えば、男性側から見える側と、女性側から見える側では、方向が待った全く逆なのです。
しかし、この間を「一つの空間」と認識している我々は、この二つの方向を一つの空間として認識してしまい、二つの方向を採用できないでいます。

男性側を基軸に解説します。
すると、男性が見ている側(意識が及んでいる側)は下の画像に成ります。
20140112-2

男性は、目の前に広がる「風景」としての「前」(前面)を見ています。
Primal Rayでは、これを「外面」とよびます。
ここでの外面は、一般に用いいられている感覚とは大きく違います。
あくまで主体としての本人の視座の先に広がる側を「その人に外に広がる面」として「外面」とよぶため、「人からの見た目」として使われている一般に言う外面とは方向が違います。
この外面は主体が、見たままを承認しているので「見えている」という事に成ります。

さて、
すると、ここでトンデモない事実が浮かび上がります。
それは、その斥力としての側が存在してる事です。

20140112-3

そうです。実は見えない側が存在するのです。

ここで表した赤い側は、男性からは見えません。
簡単に言えば、モノの裏側に当たる方向です。

「いやいや。。女性側に移動すれば見えます」と、いう意見があるのは十分に理解しています。
もしそのように思われる方は、そちらに移動してみて下さい。
当然、隠れていた裏側は現れますが、今迄見えていた側は、その裏に隠れて見えなくないます。
つまり、我々が見えているのは、「表」だけであり、「裏」は永遠に見えないのです。

Primal Rayで「対化」とよぶ力の拮抗バランスで、この関係を分析すると
■見えている側「表=外面」(前面)※一般に前と呼ぶ方向
■見えない側 「裏=内面」(背面)※一般に後ろと呼ぶ方向
と、いう関係になります。
「なんで裏が内面?になる??」
と、いう質問も散々受けてきました。
それは、外面を人からの見た目・・と誤解して来たと同じ様に、内面を「mind」「 心」などと、はき違えている事にあります。
人の見た目をいきなり採用する事により、自分からの「あるがまま」の見た目を取り上げられ、外面は自分からの方向を失い、同じく見た事も無い「心」を内面とよぶ事により、モノの裏側が見えない事は、棚上げに成ります。

更に「内面」はモノの裏側だけに存在するのではありません。
なんと自分の背面とよぶ方向も、「内面」に当たるのです。
しかし、何より一番驚くのは、自分自身はこの「内面」の方向に存在していて、自分自身では自分を見る事が出来ないと言う事実です。

もう一度画像をご覧下さい。

20140112-3

我々は何と、この事象界で自分自身を承認した事は一度たりともありません。
ボールが見えているから、自分は存在しているだろうと、思っています。
更に、女性が見てくれているから・・他者が承認してくれているから存在している事が、解るだけです。
つまり、何らかの対象に依らなければ、自分が存在している事を、今一つ力強く、自信が持てないのです。

何故、我々がモノや他者に振り回されるのか・・・。実は我々は、モノや他者の存在が無ければ、自分が存在する事を認識出来ないため、これ程、モノや他者を求めています。
他者やモノに頼らなければ、自分を認めれない・・この感覚が「自我」を存在させています。
自分以外を他者やモノと呼ぶため、自己が存在してします。
言い換えれば「自己はモノや他者に依存している」のです。

事象界で自分を、自分自身が承認出来ないまま生きていて、幸せになりたいと思ったところで、それは無理です。
子育てで考えれば、子供が一番、承認して欲しい親から無視されたまま、健全に育つはずは無いのは、想像の範囲です。
しかし、これと同じ事が自分自身の意識の中では、理解出来ないままです。
誰よりも自分自身を愛したい自分自信はを自分が、無視し続けている事実。。
自分を見る事が出来ない事を知らないまま、モノを自分のものにすれば満たされると思い続け、他者から承認さえ受ければ、満たされると思い、あるがままを見ないまま生きている人達が、約70億人います。

しかし、Primal Rayのロジックではこの事実を否定する事無く、精神論や信仰、難し教義や戒律を必要としないまま、自分自身を承認し、自分自身を認めていける「技術」を提案しています。
そう技術により「自我」を解消する事が出来る。。
正に釈迦やラマナ・マハリシ、強いてはラージャヨーガや、ウパニシャッドが提案する概念を、技術で身に付ける事が可能な成ります。

この赤い方向・・つまり、見えない方向には、無いが隠れているのか?
答えは簡単です。
それは、他者が見ている方向なのです。

実は、我々の内面を支えているのは、他者として存在する、各々の他者の役割です。
他者は、競争し争う為に存在したり、主導権争いの為にいるのではありません。
他者こそ、見えない自分を支えてくれている、尊い存在です。

お互いの内面を支え合う為の、機能としての他者の役割。。
他者こそ、見えない自分を見せてくれる存在です。

Primal Rayではこの関係を「ψ5とψ6」として、説明しています。
しかし、この対化を双対し、等化した段階で「ψ7」と言う、意識段階を手にする事になります。
「前面と背面の等化」とよぶ段階。
Primal Rayでは「愛」とよんでいる段階です。
ここで言う愛とは、人を愛する事ではありません。
ここでの愛とは、自分自身を愛する事です。
自分自身を愛する手段を手にしないまま、人を愛する事は、出来ません。
それは自分を承認出来ない自分の不安を「愛」という名ばかりの感情で、他者に負担させているだけです。

20140112-4

チベット仏教等に見られる、このようなセクシャルな仏画は、一般に誤解されています。
これは、自己の前面と背面を支え合う行為そのものが、自分自身を愛し、当然の如く他者も愛していく行為に繋がるため、モチーフとして採用されています。
ダイレクトにSEX を表現しているだけではないのです。

20140112-5 201401112-6

あるがままの二つの方向が、自分自身を愛する行為になっていく・・。
途中の幾つかの段階を、踏みながらではあるのですが、この感覚を体得していきます。

我々が自分自身を愛せないため、他者からの愛に執着し、モノに執着し、幸せに執着します。
その執着は、精神論では解決しません。
信じる気持ちは、スピリチュアルの働きを分解します。
信じる必要は全くないまま、物理的な作用を利用して解決出来るのです。

不安に取り巻かれる事は、一切なくなります。・・意味が解るから。。
怒りに取り巻かれる事は、一切なくなります。・・原因が解るから。。
悩みに取り巻かれる事は、一切なくなります。・・課題が解るから。。
悲しみに取り巻かれる事は、一切なくなります。・・愛を手にしているから。。

我々はこれを「自我の消滅」とよび、「二度目の反転」という意識状態として、技術にしています。



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