足首をくじきました。でも、大阪へ。。。

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ここ数年、時々、つまらん怪我をします。それは必ず、痛い、、。
一昨日は、足首をくじきました。
物凄い腫れて、大変な事になっていましたが、現在は小康状態。。

ashikujii

腫れはあるものの痛みはありません。
これも昨日はピーク!!これで大阪まで遠征してきました。
小山先生の講座です。

僕としてはまた感動的な体験をしたのですが、ちょっと伝え辛い内容で、、。言葉に為難いのですが、物凄いのもでした。


歩くものままならないこの足で床に座っているだけでいたいのですが、僕は小山先生のしゃくティーパットの間、約15~20分程度だと思いますが、なんと足首を伸ばしたまま、正座でいました。
当然、ものの数十秒でギブアップするような状態を予想していたのですが、ある瞬間、想像外。。予定外の事が起きて、全く重みや痛みや痺れや違和感を感じないまま、シャクテイーパットは終了しました。
それを小山先生にお伝えしたら、「それで正しいよ」とあっさり。。。
それどころか、僕のシュスムナーの<詰り>を指摘され、「まだ、引っかかるね。。」とおっしゃった。

自分なりに、勧行から止行。ヴィパッサナーからサマタに瞑想のコンセプトも大きくシフトしている現在の僕ですが、この小山先生のアドバイスは大変な意味があります。

ラマナマハリシがいう「あるがまま」に隠されたもう一つの意味。。「何もしない」「そこにいるだけ」この重要なコンセプトを消極的な姿勢と過小評価するのは簡単だし、「今にいる」事に置き換え、思考する事を「不幸」と結びつけてやせ我慢と修行を混同させたり。。そんな事じゃなく。。。
「自燈明」「直達観照」これは技術の問題です。明らかなリアル感。再現可能なゲシュタルトです。これは特定の人と人とが手渡しで補い合いながら手に入れるもので、常識的には師匠と弟子の間に流れる、慈しみがその根本の支えになっています。本で知ったとか、トレーニングコースに参加したとか、DVDで・・とか。それでは手に出来ない情報があります。
「不立文字」言葉にできない、皮膚感覚です。
ケン先生もこの事は良く言われていました。「皆でシェア出来る情報には本当の意味は含まれていない。」グルジがケン先生に言われたそうです。

瞑想の何たるかを知らないで、「ヴィンヤサが動く瞑想」だと言ってみたり、瞑想は自己暗示や自己催眠とくべつが出来なかったり、動かないで長く座れれば、優秀とか・・・。そんなもんじゃない。。。
瞑想とは意識を意識しない状態。僕の言葉で言えば、「宇宙の機能だけになりきった状態」です。
まさに梵我一如。。

道元さんや、近い所では、悪名高いダンテスダイジも命がけで瞑想したし、佐保田先生もそうだって小山先生は言われていました。

ただ目を瞑って座る事が、命を掛けるに値するのは、それなりの意味があってのはずです。
その意味は、自分独りの努力だけでは手に入れられない。
クリシュナムルティもラマナマハリシも、、、系が違う所では、シュタイナーもアレイスタ・クロウリーもこの事は知っていた。知らないのは、今のヨガムーブメントを支えている「ブーム性」かもしれない。
瞑想を笑う人もいます。ヨギの中にもです。。アサナを馬鹿にする人もいます。ヨギの中にもです。
でも、両方必要なのに、その意味に迷う人もいます。その結果、出会うのがシャクティーパットなんだと思います。

ヨガを必要とする人達には、何時かこのシャクティーパットは必ず必要となる時期が有ると思います。
でも、それを受けている僕が言える事は、行き先に答えがある訳ではなく、その旅路や行程に答えがある。と言う事です。
ヨガを続ける意味は、続けている今にある訳で、どこに向かうかに悩んでいる人は、そもそもヨガに答えを必要としていないのかもしれません。「ゴールが答えではなく、ゴール迄が答えです。」
何もしない。ただあるがまま。。その答えにヒントを頂けるのは、僕の場合小山先生のシャクティーパットだと思います。

今は足の腫れはあるものの、痛みはあまりありません。
痛いのも承知で参加した今回の講座でしたが、行った意味は十分ありました。
むしろ、この怪我をしてい為に、より凄い体験を出来たかもしれません。
全部が必然です。。。ただ、あるがままに。

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